朝風呂をすまし、2階の自室へ。髪を乾かそうとしたら“グラッ”ときた。その直後まるでポルタ−ガイストにあったように足元及び家全体がガタガタと揺れ始めた。私の部屋には大きな衣装ダンスがあり、そのうち鎮まるかと押さえていたが、ひどくなってきた。階下から母が私を呼んでいる。父は2階のトイレに入っていたので「大丈夫」と一声かけると「大丈夫」との応答あり。急いで階段を駆け下りた。
母は食卓の下の潜り込み3頭を抱きかかえている。その横に滑り込むと一番怖がりのmを抱き取った。

地震だ。大きな地震だ。今までに体験したことがない震度だ。とっさに“少なくとも連絡手段は持っておいた方が良い”そう思い、母にmを渡し2階へ駆け上がった。再度父に声かけしておく。自分の携帯を持ち階下へ戻る。するとcが母の手をすり抜けてどこかに行ったようだ。「cちゃんがいない」とオロオロする母。足元を踏みしめながら探すと階段の途中でcは立ちすくんでいる。「大丈夫よ」と声をかけながらそっと抱き上げ母の元へ戻った。まだガタガタ揺れている。恐怖心がジワジワ湧いてくる。cを抱きしめながら片手でSに電話をするが混線している。せめてものとメ−ルを打つ。「大丈夫だったらメ−ルして」必死の私の心の声。すると自宅の電話が鳴った。Yからだ。「大丈夫だけどまだ揺れてる!」切ってしばらくして揺れは鎮まった。
揺れが止まりしばらくして父が2階から降りてきた。父も初めての恐怖体験。「恐ろしかった」と一言漏らした。
ニュ−スで知られたのであろう、遠方の方々からの無事確認メ−ルが届いた。有難いと思いながらお返事を打ち、周囲を見る余裕がやっと出た。

棚の上の物は落ち、瀬戸物は割れて散らばっている。食器棚のお茶碗やお急須、ガチャガチャになっている。応接間の母が大事にしている茶道具はガラスケ−スの中で無事だったが、周囲の棚の物は落ち散乱している。そして土壁の一部にはひびが入り、お座敷のテレビは前のめりに倒れていた。応接間とお座敷のある棟は昭和40年に建てた木造建築。かしいではいなかったが、土壁のため床が砂でざらざらしていた。屋根の瓦の一部は剥げ落ち、剥き出しになっていた。
庭では樹木には影響なかったが灯篭が倒れていた。そっと2階に上がると家具の倒れはなかったが、箪笥の扉は開き中の物は散らばり、棚に並べていた私のバッグは巻き散らかされていた。
病院の方は薬液棚の倒壊とかなく、無事であったのは幸いだった。

まさに“唖然”とするとはこの事であろう。

テレビもようやくつき、震源・震度・被害状況等を少しずつ確認する。
私が住んでいる地区は一番ひどい震度6であった。

家族3人の無事は確認できた。Rは保育士で今日はよりによって卒園式。大丈夫だろうか?Tは隣市に住んでいるためここよりは被害は少ないであろうが、11階のマンションに住んでおりどうしているだろうか?そしてSからの返事はない。心配で胸がはちきれそうになった。

心配ばかりでじっとはしていられない。後片付けや修復をしなければならない。そして私は別の区に自室としてマンションを持っているため、そこの被害確認に出かけた。いつもより渋滞している道を通り、マンションについた。部屋を開けるとリビングの3分の1位に食器棚から零れ落ちたワイングラスや湯のみが散乱していた。破片が散らばり危ないため後日片付ける事とし、破損していなかった大事なグラスなどを持って帰った。私の部屋で唯一幸いだったのは棚の上の香水が落ちた場所が絨毯の上だった事。おかげで猛烈な香りに悩まされずに済んだ。

震源地は浅い所のようだが、その近くのG島は壊滅的な被害だそうだ。たった700人しかいない島民の穏やかな生活をほんの数分で奪ってしまった地震という天災を改めて憎く恐ろしく思う。
この地震が平日のラッシュ時だったらもっと被害は大きかったに違いない。我が医院でも平日の診療中、ごった返している時であったなら・・・と思うと背筋が凍った。

明日は休日診療で勤務のため、早めに就寝とした。しかし早くも余震を感じる。明日の朝は迎えられるのだろうか?見えない恐怖に息を潜めた。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索