想ふ事
2005年11月25日祖父(父方)が亡くなった時、私は3歳だった。記憶にある最初に触れた“生命の終わり”だった。
私は祖父が80歳過ぎて出来た最後の孫だった。写真を見ると私は祖父の顔にそっくりだ。そんな私を祖父は事のほか、可愛がってくれた。とはいえ、口数少ない祖父だったから穏やかで暖かい愛情を静かに注いでくれた。私の名前を特徴的な言い回しで呼んでくれていたことは、今も耳に残っている。
祖父は大腸がんでこの世を去った。腹痛を訴えて入院となり、わずか10日余りで旅立っていった。年老いていたから病状の進行が遅く発見が遅かったのかもしれないが、随分と我慢強い人であったから、そのことも影響したかもしれない。
病院から帰ってきてお通夜の支度が始まった。当時3歳の私はまだ状況が解っておらず、ただ普段会えないような親戚が集まり、近所の人を含め大勢の来訪者が有り、気分は高揚していたと思う。祖父がもうこの世の人ではないと言う事をまだ認識できていなかったのだから。客人たちは弔いの席とはいえ3歳の子供が出てくると、とくに私は父方の親戚では一番幼かったから、誰しもが私を見ると顔も綻び、声を掛け、遊んでくれた。
3歳の私は「おじいちゃまは眠っているけど、何か楽しい事があるに違いない」と思っていた。でも気がかりだったのは大好きな祖父がいつまでも眠っている事、そしていつもより顔色がさえない事、いつも着ているパジャマじゃない事、そして鼻から鼻水をたくさん出して綿を鼻の穴に沢山詰められていた事(おそらく何かしらの体液が出たのであろう)だった。夜も更け、住み込んでいた看護婦さんに連れられてその夜は寝た。
翌朝、皆は昨日と打って変わって表情が暗く、黒い洋服しか着ていなかった。私が話しかけても言葉少ない。祖父はまだ昏々と眠り続け、今日は箱の中にいた。嫌いなお線香の香りがするお座敷で皆座っていた。泣いている人もいる。
葬儀を終えて火葬場へ向かった。朝から不気味に感じていた何かが益々増した。箱に入った祖父がさらに大きな引き出しのようなところに入れられた。抱っこしてくれている母が私に「おじいちゃまとさようならよ」と囁いた。「何処にいくの?何されるの?」と問うと母は「今から焼かれてお骨になって天国に行くの」と答えた。
それまで黙っていた3歳の子が大声で喚き散らした。「おじいちゃまを焼かないで。焼いたら熱いもん。おじいちゃまが熱いでしょ
?止めて止めてー。」
火葬場の人も手を止める勢いだったそうだ。火葬場の人に止めさせようと暴れる私を必死に母は抱きしめ、私はその腕の中で「おじいちゃまが熱いよー」と言って号泣した。
人との別離にはいろいろな形がある。その中の一つに「死」という別れがある。私の選んだ職業は生命の終焉に携わる事が多い。幸い私が選んだ専門分野は致死疾患が少ないが、研修医時代を含め、ほんの数年前までにはいつ何時そのような場面に直面するかわからない毎日を送っていた。
この職業に付いた時、職場で医師として臨終の場に立ち会ったときには涙は流すまいと心に誓った。医師は家族ではない。医療行為を施すプロである。プロは感情移入してはいけない。感情移入すると目測を見誤ってしまう。最後の心肺蘇生をしながら泣いてはいけない。臨終の宣告をする時、涙声であってはならない。
だから、涙もろい私であるが、今のところこの誓いは守られている。非情に思われるかもしれないが、私は医師だ。
だからこそ、「生命」に関しては事の外、気を配り、職場を離れた場所ではWETだ。職場を離れたら、もうそれは一人間である。
私は愛するもの全てに感情細やかに生きていきたい。仮に相手に通じなくても、出来る限りの思いやりを持って接したい。そして自分に非があるときは、素直に認め、優しい人生を送りたい。
私は祖父が80歳過ぎて出来た最後の孫だった。写真を見ると私は祖父の顔にそっくりだ。そんな私を祖父は事のほか、可愛がってくれた。とはいえ、口数少ない祖父だったから穏やかで暖かい愛情を静かに注いでくれた。私の名前を特徴的な言い回しで呼んでくれていたことは、今も耳に残っている。
祖父は大腸がんでこの世を去った。腹痛を訴えて入院となり、わずか10日余りで旅立っていった。年老いていたから病状の進行が遅く発見が遅かったのかもしれないが、随分と我慢強い人であったから、そのことも影響したかもしれない。
病院から帰ってきてお通夜の支度が始まった。当時3歳の私はまだ状況が解っておらず、ただ普段会えないような親戚が集まり、近所の人を含め大勢の来訪者が有り、気分は高揚していたと思う。祖父がもうこの世の人ではないと言う事をまだ認識できていなかったのだから。客人たちは弔いの席とはいえ3歳の子供が出てくると、とくに私は父方の親戚では一番幼かったから、誰しもが私を見ると顔も綻び、声を掛け、遊んでくれた。
3歳の私は「おじいちゃまは眠っているけど、何か楽しい事があるに違いない」と思っていた。でも気がかりだったのは大好きな祖父がいつまでも眠っている事、そしていつもより顔色がさえない事、いつも着ているパジャマじゃない事、そして鼻から鼻水をたくさん出して綿を鼻の穴に沢山詰められていた事(おそらく何かしらの体液が出たのであろう)だった。夜も更け、住み込んでいた看護婦さんに連れられてその夜は寝た。
翌朝、皆は昨日と打って変わって表情が暗く、黒い洋服しか着ていなかった。私が話しかけても言葉少ない。祖父はまだ昏々と眠り続け、今日は箱の中にいた。嫌いなお線香の香りがするお座敷で皆座っていた。泣いている人もいる。
葬儀を終えて火葬場へ向かった。朝から不気味に感じていた何かが益々増した。箱に入った祖父がさらに大きな引き出しのようなところに入れられた。抱っこしてくれている母が私に「おじいちゃまとさようならよ」と囁いた。「何処にいくの?何されるの?」と問うと母は「今から焼かれてお骨になって天国に行くの」と答えた。
それまで黙っていた3歳の子が大声で喚き散らした。「おじいちゃまを焼かないで。焼いたら熱いもん。おじいちゃまが熱いでしょ
?止めて止めてー。」
火葬場の人も手を止める勢いだったそうだ。火葬場の人に止めさせようと暴れる私を必死に母は抱きしめ、私はその腕の中で「おじいちゃまが熱いよー」と言って号泣した。
人との別離にはいろいろな形がある。その中の一つに「死」という別れがある。私の選んだ職業は生命の終焉に携わる事が多い。幸い私が選んだ専門分野は致死疾患が少ないが、研修医時代を含め、ほんの数年前までにはいつ何時そのような場面に直面するかわからない毎日を送っていた。
この職業に付いた時、職場で医師として臨終の場に立ち会ったときには涙は流すまいと心に誓った。医師は家族ではない。医療行為を施すプロである。プロは感情移入してはいけない。感情移入すると目測を見誤ってしまう。最後の心肺蘇生をしながら泣いてはいけない。臨終の宣告をする時、涙声であってはならない。
だから、涙もろい私であるが、今のところこの誓いは守られている。非情に思われるかもしれないが、私は医師だ。
だからこそ、「生命」に関しては事の外、気を配り、職場を離れた場所ではWETだ。職場を離れたら、もうそれは一人間である。
私は愛するもの全てに感情細やかに生きていきたい。仮に相手に通じなくても、出来る限りの思いやりを持って接したい。そして自分に非があるときは、素直に認め、優しい人生を送りたい。
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