午前の診療を終えて午後W産婦人科へ。着くなり、私の姿を見た看護師Sさんが「あ〜良かった。今日はAzure先生だ〜」と言うなり他の人に知らせに行った様子。「?」のまま着替えて降りていくと院長や他のスタッフからも同様の事を言われた。今日に限って何故こんなに歓迎されるんだろう・・・頭の中は“??”

後で理由がわかった。先週インフルエンザで私がダウンした際に頼んだ医師とどうやらここのスタッフが合わなかったらしい。「でもさぁ、またお願いする状況はあるよ。悪い人じゃないよ。」と一所懸命フォロ−する私に先程のS看護師さんは「じゃあ、その時は私休みます!とにかく先生は今後絶対に病気しないで下さい!」と怖い顔して言った。

合う、合わないは人それぞれ。色々な人と接していかなくてはならない私たちの職業は相手に合わせる必要がある。今回の先生もそんなに強引な人ではないのだが、最初歯車が狂えば・・・という風に尾を引いたのであろう。

でもどんな状況でも人から頼りにされ歓迎されるというのは嬉しい。「来週も元気にいらしてください」と声を掛けられながら帰る。何となく、気恥ずかしいけどちょっぴり嬉しいな・・・!

クタクタ・・・

2005年4月12日 日常
午後から3歳児健診へ出向く。大体3歳位になると健診を怖がって泣いたり、暴れたりしない事が多い。言葉も大体わかるし、無駄な労力も要らない。

と思っていたら、今日は違った。一人が泣き出すとつられ泣き始める。部屋が狭いので声がこだまし、診察で尋ねる声も次第に叫ぶような感じになる。診察で暴れられると、なまじ身体が大きいので診察側も足げりをくらったりする。我が子の靴(しかもガッチリしたスニ−カ−タイプ)を履いた足がガンガン私に当たっているのに、そ知らぬ顔の母親。誰だって当たると痛いんですよ〜。

医師2人で健診するわけだが、もう一人の先生は健診だけをバイトにされている女医さんだった。だからであろうか、健診とは思えないほどゆっくりゆっくりお話されている。でもそのペ−スだと残念ながら夜までかかってしまう。彼女が一人にかける時間で私は3人・・・そうこうしながら、ようやく終了。それでも3時間かかった。

身も心もクタクタ。早く寝たい。今日はゆっくり眠れる・・・と思ったら今週控えている事が気になり、眼が冴える。羊数えたいのに、羊の顔があの“生き物”の顔になる〜!!

辛い夜が始まってしまった・・・

花冷えの休日

2005年4月10日 日常
昨夜、地鳴りと共に震度4弱の地震が起きた。先月のあの恐怖が蘇る。思わずテ−ブルを握り締めてしまった。

今日は久しぶりにゆっくりとした休日。昼からの雨でせっかくの桜も散ってしまうのだろう。お花見のため昨夜から来ていたTも夕方隣市に帰っていった。Rはピアノの練習をするといって応接間に引っ込んでいたが、休憩と称して出てきてそのまま夕方まで昼寝をしていた。父から「夢の中でピアノの猛練習が出来ただろう」とからかわれていた。

少し花冷えの日曜日。今週は一体どんな日々を送るのだろう・・・
午前は1ヶ月健診。母乳を飲ませたいのだが諸事情で飲ませられず悩んでいるお母さんが居るとの事。聞けばある程度は搾乳できるが、それ以上に張り乳腺炎一歩手前だとの事。炎症を起こしてしまってはいけないので、母乳が抑えられる薬剤を飲むかどうか迷っていると言われた。

最近、母乳がかなり見直されてきて一部では母乳栄養だけで育てましょうという風潮もある。確かに母乳と言うのは自然なものだし、赤ちゃんにとって良いのは当然の事。でも全ての母親が我が子に母乳を十分に与えられるわけではなく、中には母体の事情で最初から人工乳でいかざるをえない場合もある。いつも思うのだが、どの場合でも「これでなければダメ」と言う考え方は如何だろうか?
現に母乳だけで育てなさいと勧められ、母乳量が足りていないのに人工乳を足さず体重が殆んど増えていない赤ちゃんなども時折出会う。そんな時には「母乳のみ」にこだわらなくて良い事、赤ちゃんの身体作りをしてあげる時期だから足りない分は人工乳を無理せず足してよい事を伝える。そうでなければガリガリの赤ちゃんになってしまい、抵抗力も落ちてしまう。

今回のお母さんには母乳栄養は確かに赤ちゃんにとっては良い事だが、母体にストレスをかけてまでこだわらなくて良い事、免疫等は臍帯を通して赤ちゃんにいく事などを説明し、もっとリラックスして子育てを楽しむようにと伝えた。するとお母さんは安心したように笑顔になった。真面目そうなお母さんだからきっと悩まれたのであろう。「今日から安心してミルクを足せます」と帰っていかれた。

人は顔が違うように色んな考え方があると思う。でも逃げ場のない考え方は私はあまり賛成できない。車のハンドルにも“あそび”があるように、様々な指導法にもそれがあるべきではないだろうか。

私の話えを聞き終え、ホッとした瞬間のお母さんの顔が印象的だった。きっと良いお母さんになるに違いない・・・と思った。

小康状態へ

2005年4月7日 日常
忌々しいインフルエンザウィルスはタミフル防衛軍により随分鎮圧されてきた模様。いつまでも寝間着では気分もシャンとしないので今日から普通着に。でも少し動くとだるい。父が園医の健診があるため、午前診を少し手伝う。久しぶりの仕事。恥かしながら少し緊張。頭がまだピリッと働かないのはインフルエンザの影響か・・・それとも私の頭が元々悪いのだろうか・・・

午後からは、やはり疲れた。ベッドに横になり疲れを取る。

明日は一日院外。気をしっかり持って行動しなければ!
今朝も38℃。嫌な頭痛もしっかりある。午後の1ヶ月健診は代診をお願いした。

ひたすら眠る。でも食欲は全く無い。食欲どころか“やる気”全般がない。インフルエンザはこんなものまで奪うのだろうか・・・

早く私の体から出て行って!!

不運を嘆く

2005年4月5日 日常
深夜勤務は何とか乗り切れた。来院が途切れた合間も横にさせてもらった。来院者数も多くなく、重症疾患も居なかった。

帰宅後、寝床へ。あとはひたすら安静臥床。でも頭痛・身体が痛いなどで何とも不快な時間を過ごす。

我が運の無さを嘆く。そして誰かに呪われてるのかな〜とも思う。山形の友人I先生にメ−ルで嘆いたら「そんなに不幸が沢山来た後には大きな幸せが来るだろうから頑張れ!」と励まされた。

そんな幸せを夢見つつ眠る夜。

未体験ゾ−ン

2005年4月4日 日常
真夜中の余震で目が覚めた。と同時に手足がやけに寒い。体全体に違和感がある。とりあえず熱を測ってみると・・・驚いた!!39.2℃もある!!
“昨日の新しい診察室寒かったもんな〜”と思い解熱剤を内服。朝になってみると37℃にさがっている。“あ〜良かった”と思い診療へ(私が熱を出したとか言うと父が心配するので言うのが嫌なのである)。最初は調子良かったが次第に悪寒が出現。ようやく午前診を終えると点滴を打ってもらう。悪寒のレベルは未体験ゾ−ン。毛布3枚着ても歯をガタガタいわせている私を不気味がる母。熱は再び39.4℃に上昇。タミフルと解熱剤を内服した。

インフルエンザだ。検査しなくても間違いなくそうだ。弱り切った身体にあの寒かった診察室、そして来院した患者さんにインフルエンザがいた・・・まさに泣きっ面に蜂。しかも今日は夜間診療の日だ。代わりに行ってくれる人なんて居やしない。

結局、タミフルの効果が一番効いている時間に勤務できるよう内服時間を計算し、出勤した。行くタクシ−の中で“今夜は忙しくありませんように・・・”とお祈りした。
今日は休日出勤で夕方まで働く。病院が新しい棟になったため、皆、慣れずにやや時間がかかってしまう。それにしても立派な病院。何処も彼処もピカピカ!

喰ったり疲れた身体を引きずるように帰宅。屋内に居たから解らなかったが凄い雹が降ったらしい。父が傘をさして待っててくれた。有難う。

夕食も侭に横たわる。朝からの緊張を少しでも解きたい。でも両親の前でもやや緊張するのが悪い癖。元気そうに振舞わなければならない。先に休ませてもらった。

夜、お座敷で“お雛様”のお片づけ。“また来年も会いましょうね!”と心の中で呟いた。*我が地方は旧暦まで飾るのが風習です。
午前診を終え髪を切りに行く。心はよれていても外観だけでもきちんとしておかなくては・・・相変わらずU氏の技術は冴え渡る。

私の心も早く冴え渡りたい。

滲んだ視界

2005年4月1日 日常
午後は何とかこなせた。良かった。一息ついて帰ろうとしたその時、ある事で気持がまた凹む。色々考え込んでしまった。運転しながら“自分のせいかな・・・”等とも思い、益々凹んだ。ポロポロと落ちる涙。視界が滲む。事故だけは起こさないように帰らなければ・・・

先週の事を知っているだけに帰る早々寝込んだ私を両親はそっとしておいてくれた。メ−ルの返事も無く、また眠剤の力を借りた。泣きながら闇の世界へ身を投じた。

バランス悪し

2005年3月31日 日常
明日の午後のことを考えると気が重い。足が向いてくれるだろうか・・・昨日も結局25日の“生き物”がきっちり睡眠を傷害してくれた。緊張やキズやその他諸々で精神のバランスも良くない。

夜になると不安が募る。夕食もほんの少ししか入らず、就寝。今夜は少し眠剤のお手伝いを請う。
朝起きたら“ピョン吉”にはなっていなかった。良かった。

午前は自宅医院で診療し午後は他院で1ヶ月健診に出向く。1生日で初期嘔吐と思われる赤ちゃんがいた。元気も良くて大きな立派な赤ちゃん。助産師に指示を出している時「こんなに大きいのに頑張って飲まなきゃよ〜」と励まされていた。でも“こんなに大きな”から1000g以上も大きかった私。その当時、絶対ベビ−室で「でかすぎ〜」なんて言われてたのかな・・・

確かに大きく生れ、そのまま大きく育った。2歳の時、映画館で3歳に間違われ切符のもぎりのオバチャンから直々に「お嬢ちゃんいくつ?」と確認されていたほどだ。当然2歳だから団子のような指を2本出したらしい。

Yとは12歳離れていて親戚の人からいつもYは(実際Yは洋風なお人形さん的美人で私と全然似ていない)「あら〜Yちゃん益々美人になったわね〜」と言われ横の私には「あら〜Azureちゃん、また大きくなったわね〜」と数年間言われ続けてきた。ひどい時には当時デビュ−仕立ての歌手のWみたいになるかも・・・と噂されていたそうだが、最終的には適当な大きさで落ち着いた。

なりは大きいけど気持は細やかに育ったつもりだ。もう少しずぶとくても良いのかな・・・
日差しが随分春らしくなってきた。これで暖かくなりさえすれば桜の開花はぐっと近くなるのだろうか?でも今の状態では桜は見たくない。去年の桜がとても楽しく嬉しい思い出となっているから、今の状況が変わらなければ涙で桜の花は見れないだろう・・・

深夜、診療に出向く。先週が祭日でお休みだったので2週間ぶりの出勤。顔を出すと看護師さん達から「前回は大丈夫でしたか?」とお見舞いの言葉を頂く。聞けばとてもひどい顔色だったらしい。私はあんまりその記憶がないから朦朧とした意識の中で診療をしていたようだ。「すみません、ご迷惑をかけて・・・」

さすがに来院者は減ってきた。高熱・嘔吐・喘息と疾患も様々。でもせっかく昼間にかかりつけ医にもらったお薬を飲ませずに受診するのは如何なものでしょう?

5ヶ月の赤ちゃんが咳と発熱で受診。聞けばどうも喉頭炎を起こしているようだ。喉頭炎は急変する場合があるので要注意。吸入の指示を出した。吸入後、聴診して処方内容の説明をし、再診の必要性がある症状を指導。「では明けてかかりつけ医に・・・」と言いかけたところ母親から「あの〜」と。「今週、海外旅行に行くんですけど行っちゃダメですか?」
38℃以上の熱もある、喉頭炎の病状とその急変時の怖さも説明した、そして本人はまだこの世に生れて5ヶ月・・・
医療サイドとしては行って良いとはいえないと静かに伝えた。

まだ早いような気がします、お母さん。日本でも沢山愛情注げるから、
慌てて外国行かなくても育て様によって立派な国際人になれますから。
抱きかかえて帰るその背中に心の中で呟いた。

癒された一日

2005年3月26日 日常
昨日の“生き物”は幸い夢には出てこなかった。私の疲れの方が勝ったようだ(とはいっても精神安定剤の応援は受けたが)。
午前の外来を無事にこなし、午後は久しぶりにエステサロンに行く。年が明けて目まぐるしい毎日を送っていたので、実に3ヶ月ぶりだった。まずは地震お見舞いのご挨拶から。ここはある百貨店の8階にあり、かなり揺れたらしい。でも休日だった事と時間帯が良かったからお客さんは一人だったらしい。でも、もしあのド−ム型のスチ−ムにすっぽり入って顔だけ出している時に震度6受けたら・・・と思うとぞっとした。

今夜は知人のTさんが来福。遅めの時間に待ち合わせをし、夜の市内をご案内。日本酒の美味しい「う〇〇〇〇」で酒肴と会話を楽しむ。約2週間ぶりのアルコ−ル。身体に染み渡った。せっかくだからともう1件ご案内した。父が行きつけの「B」というお店。ラムをソ−ダ割りで楽しんだ。

染み渡ったお酒の味。そしてTさんの温かい人柄も染み渡った夜。

緊張する心身

2005年3月22日 日常
連休明け、地震明けの外来診療。地震があったのが嘘だったかのように多くの患者さんが来院。子供たちに「地震怖かった?」と聞くも子供たちは反応は今一つ。そのかわり大人の方が過剰に反応していた。実際聞いてみると色々な場所で遭遇していた。保育園の卒園式・釣りのため港にいた人・車の中・運動公園で遊んでいた人・何と地下街にいた人・・・一番びっくりしたのは友人の結婚式に参加していて、まさに指輪の交換の際にグラッとしたという人がいた。結局披露宴まであったらしい。案外。こんな夫婦は円満にいったりして・・・

午後は父に代診を頼み、市内の持ちマンションの掃除に出かける。先日見に行った時に食器棚からこぼれ割れたガラスや陶器の破片を片付けなければならない。家政婦のYさんと休日だったRも手伝いに来てくれた。
散乱しているものを拾い集めているその時、またもや余震がきた。しかも大きい。6階の部屋のため揺れる揺れる。一昨日の再来かと肝を冷やしたが、しばらくして止った。慌ててテレビをつけると震度4の余震。どおりで揺れたはずだ。

余震が気になるせいか、あまり熟睡できない。起こされなかった当直明けにやけに眠いのと同じだ。きっと身体が緊張しているのだろう。実際眠っていても夜中に余震があれば目が覚めてしまう。一体いつまで続くのだろう・・・

続く余震

2005年3月21日 日常
昨夜は余震を1時間毎に感じた。その度に身を起こし、身構えた。まどろんでは黒い手から揺り起こされているような夜だった。

今日はW病院で休日勤務。ここも地震の影響があったようだが、大きな倒壊やICUでの機器のトラブルなどはなかったらしい。
昨日の地震は何処へやら・・・というくらいに嘔吐下痢や高熱の患児たちが続々受診してくる。おかげで昼休みはなし、昼食も摂らずに午後診へ突入した。

カルテを一新しているため、受付をしてからカルテが出てくるまでが少し時間がかかっているようだ。受付で「まだか、まだか」の声が聞こえる。時折、怒号のような声も聞かれる。私は食事も摂らずに働いているんですけど・・・と言いたいが触らぬ神に祟りなしである。

夕方、綿のようにクタクタになって帰宅。ニュ−スで「今後も震度5の余震もありえる」と報道していた。今夜も“黒い揺り篭”かな・・・と気が滅入った。
朝風呂をすまし、2階の自室へ。髪を乾かそうとしたら“グラッ”ときた。その直後まるでポルタ−ガイストにあったように足元及び家全体がガタガタと揺れ始めた。私の部屋には大きな衣装ダンスがあり、そのうち鎮まるかと押さえていたが、ひどくなってきた。階下から母が私を呼んでいる。父は2階のトイレに入っていたので「大丈夫」と一声かけると「大丈夫」との応答あり。急いで階段を駆け下りた。
母は食卓の下の潜り込み3頭を抱きかかえている。その横に滑り込むと一番怖がりのmを抱き取った。

地震だ。大きな地震だ。今までに体験したことがない震度だ。とっさに“少なくとも連絡手段は持っておいた方が良い”そう思い、母にmを渡し2階へ駆け上がった。再度父に声かけしておく。自分の携帯を持ち階下へ戻る。するとcが母の手をすり抜けてどこかに行ったようだ。「cちゃんがいない」とオロオロする母。足元を踏みしめながら探すと階段の途中でcは立ちすくんでいる。「大丈夫よ」と声をかけながらそっと抱き上げ母の元へ戻った。まだガタガタ揺れている。恐怖心がジワジワ湧いてくる。cを抱きしめながら片手でSに電話をするが混線している。せめてものとメ−ルを打つ。「大丈夫だったらメ−ルして」必死の私の心の声。すると自宅の電話が鳴った。Yからだ。「大丈夫だけどまだ揺れてる!」切ってしばらくして揺れは鎮まった。
揺れが止まりしばらくして父が2階から降りてきた。父も初めての恐怖体験。「恐ろしかった」と一言漏らした。
ニュ−スで知られたのであろう、遠方の方々からの無事確認メ−ルが届いた。有難いと思いながらお返事を打ち、周囲を見る余裕がやっと出た。

棚の上の物は落ち、瀬戸物は割れて散らばっている。食器棚のお茶碗やお急須、ガチャガチャになっている。応接間の母が大事にしている茶道具はガラスケ−スの中で無事だったが、周囲の棚の物は落ち散乱している。そして土壁の一部にはひびが入り、お座敷のテレビは前のめりに倒れていた。応接間とお座敷のある棟は昭和40年に建てた木造建築。かしいではいなかったが、土壁のため床が砂でざらざらしていた。屋根の瓦の一部は剥げ落ち、剥き出しになっていた。
庭では樹木には影響なかったが灯篭が倒れていた。そっと2階に上がると家具の倒れはなかったが、箪笥の扉は開き中の物は散らばり、棚に並べていた私のバッグは巻き散らかされていた。
病院の方は薬液棚の倒壊とかなく、無事であったのは幸いだった。

まさに“唖然”とするとはこの事であろう。

テレビもようやくつき、震源・震度・被害状況等を少しずつ確認する。
私が住んでいる地区は一番ひどい震度6であった。

家族3人の無事は確認できた。Rは保育士で今日はよりによって卒園式。大丈夫だろうか?Tは隣市に住んでいるためここよりは被害は少ないであろうが、11階のマンションに住んでおりどうしているだろうか?そしてSからの返事はない。心配で胸がはちきれそうになった。

心配ばかりでじっとはしていられない。後片付けや修復をしなければならない。そして私は別の区に自室としてマンションを持っているため、そこの被害確認に出かけた。いつもより渋滞している道を通り、マンションについた。部屋を開けるとリビングの3分の1位に食器棚から零れ落ちたワイングラスや湯のみが散乱していた。破片が散らばり危ないため後日片付ける事とし、破損していなかった大事なグラスなどを持って帰った。私の部屋で唯一幸いだったのは棚の上の香水が落ちた場所が絨毯の上だった事。おかげで猛烈な香りに悩まされずに済んだ。

震源地は浅い所のようだが、その近くのG島は壊滅的な被害だそうだ。たった700人しかいない島民の穏やかな生活をほんの数分で奪ってしまった地震という天災を改めて憎く恐ろしく思う。
この地震が平日のラッシュ時だったらもっと被害は大きかったに違いない。我が医院でも平日の診療中、ごった返している時であったなら・・・と思うと背筋が凍った。

明日は休日診療で勤務のため、早めに就寝とした。しかし早くも余震を感じる。明日の朝は迎えられるのだろうか?見えない恐怖に息を潜めた。

我が心のうち

2005年3月19日 日常
嘔吐下痢が多い。便が白く頑固な嘔吐下痢だ。昨年末はニュ-フェイスのノロウィルスで脚光を浴びていなかったが本来は冬季嘔吐下痢の大御所ロタウィルスと思われる。昨日に引き続き4人目を入院させた。しかし受け入れ病院も満床が多く小児科医としては大変な時期だ。今日は土曜日なので午前で診療は終了。とはいっても終わったのは14時過ぎだった。

昼食もそこそこに自室へこもる。良くないとは分かっていてもここで感情を噴出しておかないと不安定におちいる。虚脱感に襲われ、布団に包まり感情を使わなくて良い世界に身を任せる。

自分が小娘ではないことは百も承知だ。いつまでもクヨクヨ悩んでいるなんて・・・と馬鹿にされても仕方がないのだが、上手く表現できないのだが“クヨクヨ”とはいささか違っているような気がする。足場を失った、あるいは失いそうになっている造りかけの家のような気がする。友人によっては「見込みないよ」と言われるが、私は一人の人間としてSを信じ、尊敬している。決して美化していない自信もある。

今の私の想いはただ一つ。Sを信じたい。

分離した私

2005年3月17日 日常
睡眠も深くないのであろう、現実に起こった事そうでない事の区別が朝起きた時に、瞬時に判断できない。朝だというのに疲れきった身体をズルズルと引きずって行動を起こす。でも今日一日は始まっている。
昼休みも食事を終えると自室へ。声を押し殺して感情を吐き出す。一体いつまでこんな気持が続くのだろうか・・・

一日の診療を終え、自宅へ戻る。全く食事は入らない。無理をして食べなきゃいけないのは解っているが、そうすると食べている最中に涙が溢れてきそうでかえって両親を心配させるに決まっている。自分が大人気ないことは百も承知だが、湧き上がるこの負の感情は今の所このような形でコントロ−ルするのが精一杯だ。

目を閉じ、闇の中に身を任せる。

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